メロス

 

 ”酒と将棋をめぐっては、別にちょっと面白い逸話もある。井伏に師事していた太宰治と、友人である檀一雄も登場する話である。昭和十一年(一九三六)の師走、太宰は熱海の旅館で仕事をしていたが、手持ちの金が底をついてしまった。そこで、太宰の妻から金を託されて檀一雄が熱海へ向かった。ところが、ふたりは顔を合せると嬉しいやら照れくさいやらで、居酒屋や遊女屋へ繰り出して酒を飲んでドンチャン騒ぎ。たちまち金を使い果たし、かえって借金が膨らんでしまった。やむなく太宰は檀を人質に残し、金策の為帰京する仕儀となった。まるで落語である。

 すぐに戻るはずだった太宰は、二日、三日と経過しても姿を見せない。やがて五日が過ぎた。しびれを切らした檀は、とうとうウマ付き(借金取り同伴)で太宰を探すために東京へ向かった。やっとの思いで見つけた太宰は、なんと、太宰のアパートからほど近い荻窪の井伏の家で、悠々と将棋を指していた。

 借金取りの手前もあり、檀は激昂した。太宰は指がふるえて駒を盤上に落とし、顔面蒼白となった。

「どうしたんだい、檀君?」

 井伏が怪訝な顔で尋ねるのに、借金取りがまくし立てる。井伏がそれをとりなして、やっとひと心地がついたとき、太宰が低い声で呟いた。

「待つ身がつらいかね。待たせる身がつらいかね」

 この体験が、後年、太宰が『走れメロス』を書く際のヒントになったのだという。現実には走り回ったのはメロス役の太宰でなく、セリヌンティウス役の檀一雄の方。走らざるを得なくなったのは、正義感からではなく羽目を外し過ぎたためだったわけだ。”

 

 

太宰はクソ。

 

 

 

ウイスキー粋人列伝 (文春新書 918)

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