錯覚

読むという行いは、自分がこれはと思った言葉の周囲に、領海や領空のような文字を置いて、誰のものでもない空間を自分のものにす るための線引きなのかもしれない。実際、詩でも散文でも、この方向で答えを見出そうとすると読みを重ねているうち、差し出されている言葉のすべてが、次第にいわくありげな、解釈に都合のよい顔になってくるものだ。こちらが言葉に幕を掛けたり外したりしながらあえて錯覚を生み出そうとしているだけなのに、私たちはそれをしばしば高尚な「読み」と称して納得しようとする。 - 堀江敏幸 「黄色は空の分け前」 -

                                       

僕にとっては音楽の聴き方もまるでこういう風で。ジャズなんかは特に奏者の語りにこちらで物語をこしらえ、付加して「読もう」としている。その錯覚に夢中になっていられるのかもしれないな、と思うのだ。ミュージシャンみたいにいちいちそれが誰のフレーズの引用だなんて言い当てられないし、ジャズ評論家ほど傲慢に音楽家を評する筆舌は持ちあわせていないけど、僕はまだまだジャズを聴いていたい。たとえそれが的外れな錯覚であったとしても。

 

Tumblrから。2つのエントリを合わせて少し改変した。