スポーツです!
朝のニュースショーを見ていて思う。こんなにも僕たちは感情を目まぐるしく変化させ、瞬時に考えを切り替えて生きていかなければならないのかと。いつもの当たり前の光景だが、どこかで悲惨な事件が起きたり、憂鬱で深刻な経済のニュースの後、咄嗟に「さあ、スポーツです!」と爽やかな女性アナウンサーの笑顔ではきはきしたアナウンスで華々しい競技の映像が差し込まれる。すると、直前までの憂鬱な話題は無かったことにされ、引きずることは許されないんだという強迫をその演出から感じてしまう。こんなことをいい歳したおっさんが言うのはナイーブ(バカ)過ぎるか? まあ、そりゃ僕だって一日中そんなことを考えてはいない。けれど、そういう演出にうんざりしてしまうのは事実だ。だからテレビがダメだとかそういうことが言いたいんじゃないけど。
Tumblrから。こう読んでくと、二年前からほとんど成長してないな。
贅沢な骨
帰省した弟と鰻を食べに行った。高速を飛ばして30分ほどの田舎町にある鰻屋。うな重の「上」で2500円。炭焼きの香ばしい鰻は、脂もしつこくなく程よい塩梅で、なかなかに美味しいものだった。
「鰻の骨が喉に刺さるなんて贅沢な悩みだね」というのは、麻生久美子とつぐみが主演した行定勲監督の映画「贅沢な骨」の冒頭のセリフ。今思い返すだけで、 とんでもなく青臭くて見るに耐えないだろうけど、当時は結構真剣に見ていた。麻生久美子の大ファンだったし、つぐみも「月光の囁き」見て大好きになってたし。あの頃の邦画が今より少しよかった気がするのは懐古厨の妄想だろうか。まあ、たぶんそうだよなー。
Tumblrから。若干なおし。
錯覚
読むという行いは、自分がこれはと思った言葉の周囲に、領海や領空のような文字を置いて、誰のものでもない空間を自分のものにす るための線引きなのかもしれない。実際、詩でも散文でも、この方向で答えを見出そうとすると読みを重ねているうち、差し出されている言葉のすべてが、次第にいわくありげな、解釈に都合のよい顔になってくるものだ。こちらが言葉に幕を掛けたり外したりしながらあえて錯覚を生み出そうとしているだけなのに、私たちはそれをしばしば高尚な「読み」と称して納得しようとする。 - 堀江敏幸 「黄色は空の分け前」 -
僕にとっては音楽の聴き方もまるでこういう風で。ジャズなんかは特に奏者の語りにこちらで物語をこしらえ、付加して「読もう」としている。その錯覚に夢中になっていられるのかもしれないな、と思うのだ。ミュージシャンみたいにいちいちそれが誰のフレーズの引用だなんて言い当てられないし、ジャズ評論家ほど傲慢に音楽家を評する筆舌は持ちあわせていないけど、僕はまだまだジャズを聴いていたい。たとえそれが的外れな錯覚であったとしても。
Tumblrから。2つのエントリを合わせて少し改変した。
こころのない優しさは 敗北に似てる
優しさを褒められることがある。自分の持つ数少ない美徳かもしれない。結局それは誰かへの甘えの裏返しじゃないのかと思ったりもする。 ”こころのない優しさは 敗北に似てる” そんな歌詞を思い出したりもある。
大きな悲しみを経て、大抵のことに鈍感になったというのが近いかもしれない。些細なことにいちいち怒っていられない、だとか。つまらないことに怒っている人に興味がない、だとか。
本当の優しさというものはよくわからない。そういう強い力はないように思う。いい歳をした男が「いい人」だなんて褒められた話じゃないし、実際そこまでいい人でもないし。けれど、せめて限られた周囲の人たちには、なんとかささやかに幸福でいてもらいたいと思う。そうじゃないと辛いでしょ。情けは人の為ならず、と。その程度です。
二年前のTumblrから。